昭和47年6月6日 朝の御理解
御理解第4節 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる」
「神からも氏子からも両方からの恩人」と、言うように、えー、金光大神を天地金乃神様はそのように、たたえられておられるというかね、評価しておられるわけです。
確かに、「神からも氏子からも両方からの恩人」であると、いわれる教祖生神金光大神のどのようなところが、そういうことになったのか。どのようなところが、神からも恩人といわれるようなところになられたのだろうかと。
ただ天地金乃神のおかげを、を受けられるようになったと言う事が、ただ願いが一言二言成就するといったような意味のおかげ。ね、例えば願って、えー、おかげを受けるというような、んー、おかげならば、教祖生神金光大神ではなくても、やはりその何様だって、あの御利益はありますよね。
御利益というのは、これは、あー、天地金乃神のおかげを受けられるようになったと仰るその、これは例えて言うと、その、お稲荷様だって、お不動様だってそうですはね。天地金乃神様の、おー、お働きというか、ん、を頂かなければお稲荷様だったり、お不動様だって、その御利益を現しなさる事は出来んのですよ。
いわゆる天地が感を増しますから、あの、お不動う様がおかげを下さるのじゃない。お稲荷様がおかげを下さるのではない。そういう天地の働きを、ね、現す力を、例えば不動様でも、お稲荷様でも持っておるだけのことですから。金光大神であっても同じこと。
天地金乃神のおかげを受けられるようになったといったと仰せられる、そういう意味のことではだからないです。
ね、病気のお願いをしておかげを頂いた。あー、災難がよけられた。金銭のお繰り合わせを頂いたというようなだけならね、金光様だけじゃなくったって良いでしょう。皆さんやっぱり信心は沢山ありますから、やはり御利益があるから、ここに信心という、ことになるのです。
ですから、金光大神という方は、なら、天地金乃神のおかげをどのような風に現されたかということですよね。そこが違う、他の宗教と。他の信心と。
確かに、天地の親神様から受けておられる金光大神のご信用というものは、もう絶大なものである。ね、天地金乃神の同根とまで評し、たたえておられます。ね。
神が一礼申すとも、いわゆる金光大神に神様の方がお礼を言うておられるという感じ。それで、世間の、いわゆる難儀な氏子がです、ね、病気が治ったとか、災難がよけられたと言ったような程度んのことならば、今まで長い間に人間のそういうおかげを受けて来たというような信心は沢山ある。
いやもう皆が、その御利益がなしに、信心というものは、私は思われないくらい。ね、御利益が伴わないなら、もう私は大体信心じゃないと思うですけどね。ですから、そういうただ御利益ということを、おかげということだけを現されたのではなくてですね、えー、天地金乃神様のお働きと、人間の願いというか、まぁいうならば、でしょうかね、金光大神のおかげの世界。形の上に現れてくるおかげの世界ではなくて、金光大神の心の世界が違っておったということなんです。
金光大神の心の世界。金光大神の心の、いうならご内容というものがです、天地の親神様が、同根とまで仰られ、又は、神からも氏子からもそう方からの恩人、とまでいわれられたのは、そこんとこが違う。
何派何宗という、色々な偉い宗教家が沢山でましたけれども、もうこれだけは、金光大神の世界。金光大神の心の世界が違う。ね。
昨日、金光青年が送ってまいりました、それをちょっと見せて頂いておりましたら、ある方が、熊本の、「矢野岩次郎?」という偉い先生がおられます。甘木の出社です。その先生が書かれた物の中に大変印象に残ったと言う事を、その方が書いておられる、そこんところだけをちょっと読ませて頂いたんですけれども。
「金光様のご信心は、何時でも何処ででもひょっとこが飛び出す」という言葉を使っておられます。それは、あのどういうことかというと、昔あの、こんな、私共の子供の時はあんなあったが、今はない(?)ないですね。あめの長いあめ。こう折るとですね、どこを折ってもひょっとこが出てくるんです。こう模様が。
こうひょっとこやらお多福さんやらがね。もうどこをこう折っても、ひょっとこが飛び出してくるというわけなんです。
ね、金光様の御信心は、だから、何時どんな場合でも、どこを折っても有り難い、いわゆる和賀心が飛び出してくるというのが、金光様の御信心だということなんです。ね、ここんところをへし折ったら、もう真っ白じゃったとか、ここんところは、他の模様やったじゃろうて、もう何処を折っても、そのあめ全体の中からです、折ればひょっとこが飛び出してくるというようなね、それが金光様の御信心だと。
教祖金光大神という方は、ここのところを完璧に頂き、頂きぬかれたお方だということなんです。困ったということがない。そりゃ難儀だのといわれることがない。ね、ならそういう、例えば、あー、どちらへ転がしても和賀心というような心の状態になると、どのような事になるかというとね、それこそ天地がその人その氏子の為に、天地がその人の為に自由になられるというほどしのことになって来る。おかげが。
昨日、壮年部会でございましたが、まぁ例によって何時も、あの石井清さんのお話で締めくくられるわけですけれども、何時聞いても素晴らしいなぁ、素晴らしいなぁと思いますね。
本当に、やはり、ある意味で信心の天才だと思いますね、この人は。いわゆるその心の使い方の名人とでも言うかね、素晴らしいですよそれは。それはもう何時もその、あの人の言われる事は、あの腹を立てない。腹を立てては馬鹿らしい。とこう、ね、というもう、利害関係に直ぐ、あの結びついておるようであって、その内容というものはですね、えー、馬鹿らしいからだけではなくて、もうそれが本当だと思っておるようですね。
腹を立てない事が本当だと思っておる。もうちょっとすりゃ顔色が変わる。ちょっとすりゃもうカーと来るといったもんじゃない事。それは、まぁぎこちないけれども、あのそういうやはり日常生活が、そういう事になってるですね。
こちらへ、こらせて頂く車の中で、今日親先生、★「自然と偶然」という事を頂いたんですけれどもというて、話しておりましたが、んー、まぁどういうような事かはっきりした応えを出してはいませんでした。自分も分かっていないようでしたし。
えー、だから私あの先日、あの藤山寛美のお芝居を見せて頂いた時に、感じた事を話したんですけどね。もうこの人場合なんかはあの、もう芸というものは、もう後にも先にもこのように素晴らしい間、間の良い、この間を持つ事の出来る役者は出るまいて、あの、お芝居を、のまぁ評論家が言ってるくらいに素晴らしいです。この人の芸は。
もうそのなんというですかね、いわゆるまぁ言うなら、自然と偶然が一致してくるわけです、舞台で。ね、もう本当にそれが、もうやはり名人ですね。藤山寛美は。ん、だからそのことを話しておったですけれども、はっきりしたあれを出していませんでしたけど。
今日私は、そのことをちょっと御祈念中に思わせて頂いたらね、★私の子供達、あのちょう、あの息子達の、あの高校のことを頂きました。全部。そして、「士農工商」と頂きます。
私の4人の子供がね、あの、若先生が普通高校行ってます。光昭が農業学校いっとります。幹三郎が工業学校へいっとるとです。栄四郎が商業学校へ今いきよるです。(笑い)もうね、あればいっちょなら商業にやろう、こりゃ農業にやろうではなかったんですよ。でなからにゃできなかったんです。
ね、もう本当に自然の働きがですね、その偶然のすと一致といったようなこと申しますか、偶然そういうことになってしまった。私で信心のまぁ、まぁある意味で素晴らしいというなら、何時の場合でもそれだという事なんです。丸っきり演出したようにあるという事です。
ね、例えば私の4人の子供達が、そういう「士農工商」という、まぁ人間のあらゆる部類に渡った人達の難儀が助けられることの為に、私の手になり、足になってくれる子供達。だから、商業のもの助かるばってん、農業のもの助からんといったような事じゃないことになってきたわけです。
というような、感じを、非常に深く今日、頂きましてね、ははー自然と偶然と言うことは、こういうようなことだなぁと思わせて頂きました。
自然の働きが、もう丸っきり、ふが良かったとか、偶然ですねとかというような言葉を使わなければおられないほどしのおかげになって来ておるという事。
ね、なるほど息子が4人生まれたという事も、そもそもからですけれども、それが、私の方も皆、もう明善高ばかりでございます。もう明善高ちゃもう最高のここは、いうなら高校といわれておるですね、この辺では。
はて家んとはもう皆頭がよかけんで、もう明善高ばっかりでございますというて、それを自慢の種にしておるような、ところがあります。だからこそ、明善高的なもんだけしか生まれてこんのです。範囲が狭い。
ね、そげなこつは決してよかこつじゃなか。家はもう皆東大ばかりです。だから、困ったのが出来てくるわけなんですよ。ね、もうそれこそ、もう様々なおかげが頂けれるため。いうならば、ね、神様が下さる様々なおかげを、どのおかげでもキャッチ出来れるような、信心になからにゃいけんと言うこと。
はー、こりゃもう本当に、大変な事だなぁと思うた。何処何処に受けたけれども出来なかった。だから仕方がないから農学校。何処何処に受けたけれども出来なかった。仕方がないから、商業学校と。けれども、それがいかに神様の働きであったか。自然の働きであったかということを、4人が学校に行ってしもうて、初めて分からせて。
まぁ大変な神様の働きの中に、そうあらせられておるわけですね。私は金光様の御信心。教祖の御信心の、御内容というものからは、このようなおかげが頂けれるという事になってるという事。
私もだから、その金光大神の、いわゆる御内容。まさかの時には、天地金乃神というに及ばん。金光大神助けてくれといえば助けてやる。もういうなら、天地金乃神だけでは助からない場合であっても、金光大神といや助かるというようなところがあるですね。金光教の信心は。
それほどしに、天地のいわば御信用を受けられた。ね、私最近、生神金光大神様と言うことが、もう今までとは違った意味で、もう日々ね、皆さんが、生神金光大神様、天地金乃神様と唱えておられるのはね、もういうならば、日々内容が違わなきゃ嘘ですよ。昨日の金光大神よりも、今日の金光大神はもっと素晴らしくなっておる。明日の金光大神は、もっと鮮やかな働きを示して下さる金光大神でなからなければいけんです。それを、日に日にさらというは、そういう事じゃないでしょうかね。
もうあれは14、5日前でしたか。えー、御理解に「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は無常の風に時をきらわすぞ」と仰るあの、あの時からね、私はもうとりわけその時からです、私の金光大神が、大変なものになってきたです。
いやー、金光大神の道は、もう天地金乃神様の働きというものは、それぞれの一つの運命といったようなものがこう、定められてあるといたしましょうかね。その通りの働きがなさるのが、天地金乃神様なんです。
ね、それを例えば金光大神の場合は、金光大神助けてくれといえば、もうそこから運命が良い意味に開けて来るとか、むしろ運命が破れてから、次の素晴らしい運命が生まれてくるといったような働きになって来るわけです。
ならんことでもなるように、助からん者でも助かるようにという働きがそれなんです。ね、「金光大神の道は、無常の風に時をきらわす」といわれるほどしの道。そういう働きのできられる金光大神というものも大変なことだなぁと思うんです。
そういうなら金光大神の御内容というものがです、天地金乃神からも、一礼申す、とか。こん、天地金乃神の恩人と言われるのは、そういうところなんです。ですから、どうしても金光大神の心の世界というものを、私共が一歩ずつ、それに近付いて行く稽古が信心だという事になるのです。
ね、そこに素晴らしいタイミングの中に、日々をおかげを頂き、ここではこれが素晴らしいですね。これはもう本当に素晴らしいです。
昨日清さんが、発表してから、発表してしもうてから、本当にこりゃ、もう自分の、何時も心の中に、ひそかにしておったこと。まで今日は話してしまいましたというておりましたが、それは、あぁこういう事は人の前で話してはならないと思うておったことを、昨日話したというわけなんです。
というと、その話しをすると、自分の兄弟のことやら、その兄弟の嫁達のことやらを、悪口言わなければならんのです。ん、けれどもいわにゃ理がつまんから、まぁ話しのついでに出たわけなんですけれどもね。
この頃から、んー、台風があるという、あの、テレビ、ラジオで言うておる。それで弟の清之助さんのところで、えーその嫁さんの「ようこ?」さんち言いますが、とにかく二階の、いわゆる戸をこうやってしとかにゃいかん。瓦ば飛ばんようにこうしとかにゃいかんというので、丁度そういう、その騒ぎよるところに、清さんがいったらしいですね。
だから、今日はそげんせんでんよかよち。神様にお願いしたら、台風がこんごたる感じじゃったから、もうそげんせんでんよかが、ちいうたら、もうそれこそなんというですか、もうほんなこて、あんた神様んごたるのち、その言い方がね、もう馬鹿じゃなかじゃろうかちいうような言い方をしたというわけなんですよ。
これはもう、あの、何時ものことらしいですね。何時もあの馬鹿ん( ? )しとりますからね、この人は、だから誰でん、あのかるうみられるところがあるです、自分でもそれを言う。ありゃ馬鹿ん( ? )です。決して馬鹿じゃないです。そん馬鹿ん(風に?)出きるところがこの人は素晴らしいところですもんね。
そしたら、一時したらげなら、その電話がかかってきてから、ちょいと兄さん来て下さいちうことで、そして、清之助さんは又、その弟の(?)家内がその上に、屋根に上がってこうして、あぁしてくれちいうもんじゃけん、その嫁御ん言う通りしよったところが屋根から落ちだげな、そしてから、腰の骨へし折っちゃるけん、はよ上がって下さいち。
あーね、だからそういう時にほーらの、私がいう通りしときゃよかばってんという事を決していわんですこの人は。ながら神様がね、神様が私の心の世界、私の心。私の心の世界が見事であればあるほど、神様は、私のために働いて下さるちゅうことです。
ん、これもそれ清之助さんが、外交の方やって、清さんが内のことやってますから、丁度工場の方の、改造を少ししたい。その時の大工さんが分からんところがあったからね、そのどうしたならよかろうかといよるところが、清之助さんは何時もしゃんしゃんしとるけん、そちらが社長んごと思うとったわけでしょうね。
すと清さんはもう、ある意味では、まぁ(?)だらけになって毎日働きよりますけん。まぁ下ん方ぐらい思うとったでしょう。だからあの、清さんが、いやそれはこげな風したが良いでしょうちいうたら、あんたが言うたっちゃちゅうごたる風に、そんいうたげな。それから、ここは大体私が社長ばの、ち言うたという訳なんです。
それを、隣の事務所に行ってその、弟嫁が聞いとったそうです。そしたらもう、それこそね、兄さん妙な事いわんで下さい。というて来たち。又言い兼ねない人ですこの人は。(?)ね。
例えばあの、清さんの長男が「竜一?」ちいいます。そすとこちらの、弟さんの子供も息子も2人おる。こっちも息子が3人おりますけれども、まだおばあちゃんがおる自分にね、長男の「竜之介?」あの、「竜一?」君に、あんたしっかりせにゃね、(一生ゴム?)のいわば跡取りじゃから。あんたが長男の息子じゃから。あんたがしっかりしにゃ出来んよ、他んもんに言いよったのをその、弟の方の息子、長男が聞いておったわけで。
ね、それでその、ばあちゃんが今日はこげなこつ言うたよち。僕は社長にはなられん。あちらの息子、長男が社長になる。まぁそういう風に言ったらしいから、ほーならまたかんかんになってきてから、そげな事ば子供に言うちからちうちから、そのいうような事があその、ちょいちょいあるらしいですね。
そういう時に清之助さん、あじゃないその清さんの生き方というものがね、もうそれに何ともいっとられん。はー「ようこ」さんの心であれば、そげんもいおうごとあろうと思うらしいですね。
これが、清さんの心の世界です。ね、そげなこといよるとばちかぶるぞとか、そげなこといよると、お気付け頂くぞとか。あー、ここを言うち聞かせてとかんならんといったような事が、全然さらさらない。
さらさらないというか。まぁちょっとあるかもしれんばってん、そういう全てを、頂き方をする人なんです。ね、いうなら、どこをへし折ってもひょっとこが飛び出してくるというのですよ。ん。
ですから、その神様がね、結局そういう心の世界を開いて行く者の上にだけ働いて下さる。というて、なら現在おかげを受けておる話しをしておりましたがね。もう本当に私が言うておるその点のところだけをね、言うならば、もう御の字を付けて御事柄として、これを地でいきよるという感じです。この人の場合は。
だから、これは、あの石井清さんの心の世界は、皆おかげの世界です。教祖金光大神のという、のが、いうの、金光大神の心の世界というのが、ね、何処、何処を折っても和賀心しか出てこない。
どちらへ転がしても和賀心しかでてこない。というのが、金光大神の心の世界だとこう思うのです。しかもその、形の上に現れてくるおかげというものはです、もうそれこそ、もうほんに偶然ちゃ、というような、いわば偶然が連続するわけなんです。
ね、偶然というものはそんなに続くもんじゃないです。けどもそれを、信なき者は偶然という。ね、例えばなら私が、なら私共の子供達が4人高校へいっとりますけれども、その4人の子供がです、期せずして士商、士農工商という学校に行っておるということはね、これはどういう事かというと、人間のあらゆる部門にですね、に広がって行けれるという意味でしょうが。
ね、人間を例えば四っつの分類に分けるなら、それだけの事になって来るんですよ。どこにか人間な入るわけです。だからもう、士だけしか助からんとか、農だけしか助からんとか、商だけした助からんと言うことではないという事。合楽の信心は。
そういうように、これはいうなら、大坪総一郎の心の世界なんです。心の世界の、の現れが、なら現在合楽で現れておるところのおかげなんです。ですから、お願いしてから頂いたというおかげもだけれども、そういうおかげの世界というものはです、ね、いうならば、教祖金光大神の独壇場。そこで、その金光大神の生きられ方、御あられ方というものをです、形の上ではない、魂の世界。
金光大神の魂の世界に、一歩ずつでも近付かせてもらう。触れさせて頂くという生き方をさせて頂くというのがです、ね、成り行きを大事にするという事であり、ね、全ての事を御事柄として受けていこうという、それもすっきりとした、ね、本当に、弟嫁になってみれば、そげんも言うごたろうと。あの人の根性でいうならば、あげん考えるのが当り前じゃろうとこう思うとるわけです。
なし私が社長じゃろうもんち。ね、実際社長なんですから。(ねごつ?)いいよんのち、言うたっちゃよかわけですたい。
そして、その後に、今度は、その「ようこ?」さんの、例えば、その、その時の、その「ようこ?」さんの里もですね。やっぱり「ようこ?」さんが私を馬鹿にしとるから、「ようこ」さんのもの、里の方のもんも、(お父さんねお母さんね?)私をかるう見て馬鹿んごといわれるとこういう。
ところがその、家内の弟にちょっと出来そこないがおってね。どうでんもうどこんでん勤まらんけん、清さんに頼んで、清さんの妹婿が、今北九州で大きな工場をやっています。そこんでん頼みにこんならんような事がその次に、直ぐ起きてきとるというわけですよ。
だから、さっきのその、おー、その、ね里から、それば頼みに来た。そして清さんにお願いしてくれ。さぁ「ようこ?」さんが、例えでいうならばあの説教、さっきは、つまらん事いうちからお兄さん済みませんでした(ちゅうた?)けども、そげな事まだ聞こうとも思っていないけれどもです、もう神様が次の瞬間には、もう私の顔を立ててくださっとるちゅうわけです。
ね、そして、その後の事を言ってましたが、その弟がもうどこに勤めてもできん、もうこりゃ出来そこないで、どうするかというのが、もうそれは何年にかなるそうですが、その、清さんの妹婿の、その社長、もうこの人のためには命をかけてもよかちゅうごと一生懸命、現在北九州で働きよるという、もうその、清さんの心の世界に現れてくるおかげというものがね、もうどういうところにまでもこうやって響いていきよるというような意味の事を話しておりました。
ですから、もう今日は妹とか、妹婿とか弟とか(笑い)いうなら弟どんが罰かぶった話しまでせんならんもんだからね、大体はしごとないけれども、それを言わなければ理がつまん。
まぁ聞くものして、だから実感的に、決して悪口をいうていよるとじゃない。こういうおかげが受けられるんだということを、昨日は説明しておるわけなんですよ。ね。
その、妹、「ようこ」さんの里の方からね、間髪をいれずですね、息子の事ば清さんに頼みくるちいうと。ね、それをなら、もうそれこそたんたんとして、その時にも、神様にそのことをお願いさせて頂いたら、そりゃもう本当に、せっかく自分の可愛い妹が嫁っておる先で、またどまぐれん親戚の、ばいって、妹が困る事になるかもしれんとこう思うたち。
ね、だからこれは断るのが本当じゃなかろうかと思うたけれども、神様にお願いをさせて頂いきよったら、やはりそこにあるが、皆が助かるような意味の事を頂いたから、あの心よう、それを承知したとこういうのです。
そしたら、それから何年かの、もう経った話しなんですけれども、現在では、その妹婿がその社長である、その妹婿のためなら、その命がけででも働こうというくらいに、その真面目に改まっておかげを頂いておるという話しをしております。
ですから、もう本当に私達がですね、どういう事柄の中にあっても有り難いというものが先に出てくるね、おかげ。もう本当に御事柄として、受けられる心の状態を稽古するというのは、金光大神の心の世界に迫っていく事なんです。
心の世界に近付いて行く事なんです。だから、金光教祖的なおかげが現れて来る。いわゆる自然の働きをです、自然の働きといや、もうそりゃ暑い事もありゃ、寒い事もあるわけなんですけれどもです、その、おかげというものが、私の場合ですよ、いわゆる皆さんの場合というてもよいですよ。その暑い事がおかげといわにゃならんような時にあつうなってくるというわけなんです。
寒い方がよか時に、さむうなって来るという。降らにゃならん時に、例えば繁雄さんの話しじゃないけれどもね、苗を植えたり、種を蒔いたら、必ずぱっとなっとんお湿りがあるというようにですね、その自然の働きじゃけれども、偶然のいっちょのようにそういう働きを現して行くことが出来る所がね、教祖金光大神の信心なんです。
お取り次ぎを頂いて、お願いをして、こういうおかげを頂いたというだけなら、何様だって、まぁそういうおかげなら現しえなさることが出来るのだけれども。なるほど天地金乃神様が、両方からの恩人は此の方金光大神と仰ったわけが、分かるでしょうが。ね。
天地の働きをもう見事にです、それも自分に都合の良いような働きに持ってくることの出来れる信心なんです。ね、はーこりゃ困ったこっちゃある、今日は雨が降るということがないのです。
ね、ほんの昨日種蒔かせて頂いたら、もうおしめりを頂いて有り難いというような、おかげの、しかもそういうおかげの連続的なね、おかげが頂けて行くのが金光様のご信心。それを、なら私共の場合はです、ね、場合によっては、今日は、雨ん降ったがよいけれどもお天気といったような。お天気が今日ええ。お天気がいい。良いと思うけれども、今日お湿りがあったといったような事もあるけれども。そこんところを私共は、もっともっと心の、金光大神の心の世界に迫って行く信心の稽古をさせて頂いたら、それが偶然のいっちょのようにです、おかげが頂けてくるようになるという事なんです。
ね、そういうおかげを、頂かれ、現して行くことが出来る働きを、金光大神はなさった。ね、金光大神の心の世界というのは、何時何処、どういう風に、転がされても、その時点で、その場その場で生まれて来るのが和賀心であるという事。
ですから、やっぱどうでも、この和賀心を焦点に信心をさせてもらわなければならない。その稽古を日々させて頂かなければいけないという事が分かります。ね、そこから日に日に唱える金光大神の内容が変わってくる。
ね、もう昨日なんか、生神金光大神という金光大神と、今日唱えておる金光大神とは、もう差が出来ておるほどしの、おかげを頂かなければならない。そして、言うならばね、生神金光大神の境地を目指してとこういう、いわゆる本当に、もう心からすっきりとです、どちらへ転がしても、和賀心が出て来るほどしの信心を目指させて頂いて、まぁぎごちないけれども、そこんところを稽古して行く内にです。本当の意味での金光大神の世界が心に感じられることになるのだとこう思います。
そこで、金光大神の心の世界というものは、伺うて知る事は出来ません。もう体験しなければ分かるもんじゃない。清さんの心の中を、誰も知らないように、ね、もうこれだけは清さんが自分の心を眺めさせて頂いて何時にいっておるような時があるだろうと思う。
ね、例えていうならば、自分は馬鹿じゃない。利口もんだと、思うとるとしましょうか。ところが人がそれを馬鹿にする。ちょっとこれがにやっと笑いよる。ははーこういうふうで自分なおかげ頂いて行くとばいなと思いよる。ね、それでいて、なかなか頭のいい人です。(じずめ?)が良いし、決してもう抜け目のない人です。ん。
ね、けれども、そういう信心の、その内容というものは、もうその自分の心の使い方というようなものは、清さんだけしか知らない。ね、いうならば、影の徳とでも申しましょうかね、ね、自分の心のよりどころというものは、もう自分だけでじっとしまっておきたいのだけれども、ね、けれどもお話しをする時には、今日は人の悪口も言わなければね、私が、なら仏教やらキリスト教な事、例をとって、悪口じゃないけれども、金光大神の信心の素晴らしさを説く時には、これを例にとって申しますようなもんです。
事実を事実として語る。清さんも昨日なら事実を事実として語る。けれども、その中にはやはり、なら妹やら妹婿の事やらも、じゃないその弟嫁の事でもです、ね、そういう風に、まぁ心なく、なしにまぁ話さなければなりませんけれどもね。
清さんのいうならば信心の、いや心の世界というものが、もう本当に合楽で言われておる事をです、その事実を持って言っておるという感じです。
だからね、お互いもここんところを身に付けて行くところの、おかげを頂いて行くところから、なるほど金光大神こそ、私共の恩人である。なるほど天地の親神様が神からも恩人と仰った、なるほどだと分からせて頂く事が出きると思いますね。どうぞ。
梶原 佳行